日本の企業内語学教育についての所感    

ポリグロット外国語研究所代表 猪浦道夫

 現在我が国の企業の人材教育の中で、とりわけ国際化戦略に向けた語学教育、異文化適応教育の必要性が叫ばれるようになっ既に20年以上が経過しました。こうした中で、多くの研修担当者の方々から、社内の語学研修がかけた費用の割には充分な成果を収めていないという御意見をお聞きします。そこで、こうした視点に照らして、私どもポリグロットが日頃より主張させていただいている所感を、ここにあらためて述べさせていただきたいと思います。

1. 日本の語学教育全般にわたっての問題点

 企業内の語学教育に限らず、文科省指導下の学校での語学教育、一般の商業的語学教育機関での語学教育等、日本の語学教育全般について言える問題点を列挙してみたいと思います。

1) 極端な英語中心主義

 日本では学校教育の中でほとんどの場合英語しか外国語選択の余地がないので、学習者は「外国語といえば英語」というイメージが強すぎ、その結果柔軟な言語観をもてなくなっている。

2) 日本人向きの教材やメソッドの不足

 例えば、英語の教科書は英米、フランス語の教科書はフランスで出版されているものを珍重する傾向があり、日本人の言語学者、教師の手による日本人向きの独自のメソッド、教本類が不足している。英語以外の言語などでは、日本人のプロフェッショナルな実力を備えた語学教師が圧倒的に不足している。

3) ダイレクトメソッド崇拝主義

 ほとんどの学習者が、受験英語アレルギーに対する反動から、「ダイレクトメソッド」教授法が最良の学習方法だと信じている。この傾向は、学習者、あるいは人事担当者のあいだでいまだぬぐいきれない「西洋(人教師)コンプレックス」にも助長されている。これは、日本語と英語のような言語構造のまったく異なる言語の学習において、特に入門段階の学習法としては、幼児の母国語習得と成人の第2言語習得を混同した時代錯誤的なメソッドといわざるをえない。

4) 外国人教師崇拝主義

 これは特に欧米言語の場合に、特にその傾向が強い。発音についても、外国人講師に習えば発音が直ちに矯正されるという「幻想」が強い。実は、日本で雇用されている外国人教師で、(1)語学教授に必要な専門教育を受けた者、(2)日本語について充分な知識のある者、は極めて少数です。

2. 英語教育

 広い目で見るとき、第2次世界大戦後の我が国の外国語教育は、ある意味で不幸な状況におかれたといえるのではないかと思われます。つまり、日本人にとって本来習得しにくい英語という言語が戦後世界の共通語として圧倒的な力をもつに至り、特に日本の場合学校教育の中でほとんど英語以外に外国語選択の余地が無くなってしまったため、「外国語といえば英語」というイメージができあがってしまったのです。

 このため、常に「日本語vs英語」の二元的思考にとらわれるようになってしまい、多くの外国語学習者の言語観が硬直化してしまうのです。客観的に言語構造を観察、分析する目が養われず、多くの凡庸な英語教師たちは、プロセスを無視してただ少しでも多くの英語的な語法を暗記したものが勝ちという学習方法を学習者に強いてきました。実際、ほとんどの語学学習者が「語学=暗記の積み重ね」というイメージを強くもっています。

これは、英語という言語のもつ「ピジン性」(簡単にいうと、単語を並べれば大体通じるという傾向)も原因の一つと考えられますが、「英会話」と「受験英語」しかない旧態以前たる我が国の英語教育の貧困さに最大の問題があるように思われます。

そしてさらに、その根幹にあるゆゆしき問題は、そもそも国語である日本語教育で正しい論理思考を養うに必要な訓練をしていないことにあります。日本語でものごとを正しく考え、コミュニケーションする練習をしていなければ、外国語を学んでも母国語とのロジックの差を観察し、その差をある意味で「味わう」というような能力は養われないわけです。

3. 第2外国語教育

 第2外国語教育について言えば、戦後英語教育に比べて軽視されたが故に(皮肉にも)ある種の「語学教育としてのオーソドックスさ」を保持したように思います。つまり、ほとんどの学習者が大学に入る年齢になってから学ぶため、そして英語のように中途半端に会話を優先して学ぶ、ということがないため、実はまがりなりにも原書を辞書を片手に読めるようになる学習者が育つ確率は、英語より相当高いのです。

 英語の場合、受験参考書、実用会話参考書等を中心として、数え切れないほどの「英語専門家」が数え切れないほどの書籍(メソッド)を市場に出し、「英語」という言語を手垢で汚しきってしまっている感があります。そこでは小手先の「王道」ばかりが追及され、本来それほど身構えてする必要のない語学の学習に不必要な(過剰な)情報を与え、学習者をいよいよ混乱させているような印象を受けます。

 それに対して、第2外国語教育の現状はどうでしょう。第2外国語というと、大学生が教養課程で学ぶフランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語、ロシア語(まれに韓国語、イタリア語)が思い出されます。20時間足らずで初級文法を終え、翌年いきなりかなり難度の高い講読を「主として文学専攻の教師が」教えるというのがその代表的な授業の進め方です。いわば、文学作品を味わうための語学教育です。

 しかし、第2外国語教育の場合なまじ「受験語学的洗練(?)」を受けなかったため、そして英語以外の欧米の言語が、一般に英語に比べれば一言語としての体系を整然と保っているものが多いために、コミュニケーションに必要な最低限の文法を学ばない限り、会話を習得することもできないことが多いのです。そのため、英語に比べれば、まだ「まともな」学習方法がとられているということができるのです。

4. 外国人社員の日本語教育

 この分野でも、先に述べた外国語教育と同じことが言えます。つまり、外国人に日本語を教える教師は、その生徒の母国語について充分な知識をもっていることが望ましいのですが、多くの場合この条件が満たされていません。

 わが国の外国人向け日本語教育がお粗末なのにはいくつか原因があります。そもそも日本政府(文科省)が日本語を大切に思っていないこと、したがって本当に必要なところに有効な予算を配分していないことがあります。その結果、日本語教師はどんなにスキルを磨いても高収入を得ることができません。そこで、英語が苦手だが母国語だから日本語なら教えられるだろうとか、逆に英語がしゃべりたいが通訳できるほどできないので日本語きょうしでもやるか、という安易なモチベーションで日本語教師になっている人が多かったりするのです。

 このような結果、高度な日本語能力をもちたいと願っている外国人学習者が道を閉ざされてしまっているのです。日本語を深く理解し愛情を感じてくれる外国人の友人を多くもつことが日本の将来にとってどれほどメリットのあることか、わが国の政府の役人さんたちは考えたことがないのでしょう。

5. 異文化適応トレーニング

 昨今はやりのこのトレーニングも、もともと米国で多少とも戦略的な意図をもって開発されたため、そのアプローチをそのまま導入してきていることが多いようです。そのため、基本的にその手法は「アングロサクソン思考」であり、かつ「アングロサクソン基軸」の域を出ません。私たちは、より日本を座標軸にした、あるいは全世界に通用するフェアな方法論が開発される必要があると思われます。